幸せな時間

 

 

今日、久しぶりに美容院に行った時のこと

入店した時は、私以外に2名程

お客さんがいてはった。

でも、最後のシャンプー、マッサージ

してもらうときには私と美容師さんのみ

そのときが何とも言えん落ち着きと

癒しの空間やった

 

その時ふと思った

 

仕事し続けてるときに来ても

こんな気持ちになれてたかな?って

 

気持ちに余裕があったり時間があるからこそ、そう思えたりその瞬間が訪れたような気がした

 

就職して5年経ったとき、

思い立ってカナダへ飛び立った時もそう感じた。

すごい清々しかったし、

あ〜幸せって感じる瞬間がいっぱいあった。

その後また働き出して忙しない日々を過ごし

2年働いて、産休というかたちやけど

一旦また仕事を離れた

 

ずっと仕事しててもずっと休んでても

こんな感情には辿り着かんと思う

思い切り走り出したり、休んだり、

歩いてみたり、やめてみたりするのが

私にはすごく幸せを感じられる方法なんやと思う。

そのタイミングって自分で作るもんやと思う。

私は自分で作ってきたと言える。

努力してそうなったと思ってる。

それが偉いことでも凄いことでもなくて、

自分の機嫌を自分でとる。

自分が幸せと感じる方を選ぶように

してるということ。

大人になったら、

自分で自分を可愛がってあげて、

幸せにしてあげな!

 

って思う。

 

仕事してるときも、楽しい瞬間はある

看護師という仕事は好きやから

けど、私にとっては距離を取りながら

する方が気持ちよく仕事できる

 

これからまた育児という初めての経験が始まる

それもすごく楽しみ

また母になったら休憩ってないもんな

母になったらずっと母やもんな

どんな気持ちになるんやろうな?

ワクワクドキドキ

 

幸せな時間という感覚と価値観変わるんかな

 

そんなことを思った1日でした。

 

 

人生が変わった瞬間 カナダ生活を決めた日

今週のお題「人生変わった瞬間」

 

私の人生が変わった瞬間。

それは、海外で生活してみる、と自分で決めた瞬間かもしれへん。

行ったことで変わったこともてるんやけど決めた瞬間が、私の心が変わったかも。

 

私は姉と弟がいる3人きょうだいの真ん中。昔から好奇心旺盛のおてんばやった。

姉が怒られてるのを見て、弟が可愛がられる姿を見て、怒られへんように、可愛がられるように生きていく術を自然と身に付けていってた。でもそれがええんか悪いんか。"良い子"でおらなあかんと思って、親の言うことを聞く素直な子やった。

思春期なっても反抗期もないし門限も守るし、校則もちゃんと守って真面目に生きてきた。けど、それが窮屈に感じてることも正直あったし我慢もそれなりにしてきた。

大学受験、志望校は県立大学。でも見事に落ちて、滑り止めで受けた私立大学に行くことに決めた。でも、合格が決まってから父親に"払える金はない。そもそも4年通い続ける自信はあるんか?"と言われ。悔しかったけど今まで親に言い返すことなんかしてこんかった私は、どう伝えたらええのか分からず、泣くことしかできんかった。その時期は、専門学校でも出願期間が迫って、選べるところも数少ないのに。なんで今更言うねん。子どものためならどうにかして行かせてあげたいとも思わんのか?この人は。って思ったり。でも、成人もしてなくて親に迷惑かけるくらいなら、諦めるしかなく。言いたいことを言えず、我慢してきたそんな10代を送ってきた。

結局大学には行けず、大阪の専門学校へ進学。環境がガラッと変わり、刺激的な3年間を過ごしてた。その後看護師として学校の附属病院で5年間務めた。

私が4年目のとき、仲のいい研修医が海外留学するということを聞いた。私はその話を聞いて心が弾み、私も行きたい!!ってなった。

ノリで私も行こっかなって周りに言うたところで、無理無理〜やめときな!とか、女ひとりで危ない!看護師そのまま続けた方がいい!とかネガティブなことを言われた。親にも"何を言うてんのや?5年しか務めてもないのに何が分かったんや?"とかあれこれ心配事も言われた。

やっぱり私の考えは甘いんかな〜と思いながらも暇あれば、海外留学のことについて調べて、5社程エージェントを回った。

正直自分に自信もなかったけど、どうしたら周りを説得して、尚且つ不安感を少なくできひんかを模索しながら、説明できるような準備を自然としてた。仕事も忙しいなか、合間ぬってやってる自分がいてた。それだけ自分は行きたいんやと思った。

ある先生に相談した時、"あなたの人生は親の人生じゃないよ。あなたが一番やりたいことをやらないときっと後悔をしたり、親のせいにしたりする人生になってしまうよ"って言われて、目が覚めた。

やから実家に帰り、両親に一生懸命説明した。NOと言わせへんくらい、調べたことをプレゼンして行きたい意志を伝えた。父親は"そんだけ行きたいなら行ってきたらいい"言葉数は少なかったけど渋々OKしてくれた。母親は昔から私の気持ちにいつも寄り添ってくれてて、あんたのしたいようにしたらええよ。っていつも通り言ってくれた。

ここまで思いを両親に伝えたことは少なく、このことで言い合いになったこともあったんやけど。自分の思いを伝えるってほんま人生変わると思った瞬間やった。それを身をもって実感した25歳やった。もっと早くそれが出来てたらまた違ったやろうけど私はあの時から変われた気がする。

カナダに行って知らん土地、言語、習慣、全てガラッと変わって色んな挑戦や経験ができた。勿論しんどいこともあったけど、あの時に選択した決断があったからこそやと思う。その決断こそ、人生が変わった瞬間やった。

94歳のおばあちゃん

こんなん(病気、入院)なってまで生きたくない死にたいって言うおばぁちゃん、今まで何人いたかなってくらいその言葉を聞いてきた。

でもほんまにそう思ってる人とそうでない人とがいると思う。その人の背景とその人の心理状態と病状による差やと思う。息が苦しい、腰が痛い、胸がドキドキする、その症状そのものって感じてる人にしかわからんもの。

看護師として解剖学的にとか病気の症状として推測はできるし理解しようとするけどほんまの気持ち、苦しみ、悲しみというのは本人しかわからん。そこが人間のおもしろいところであり、難しいところやと思う。


そこに投げかける言葉ってほんとに難しい。

それはやってみなわからんこと。

そして相手がどういう反応をするか。

どうしたらお互い気持ちよくおれるか。


高齢者は認知力の低下がある。それは老年期の身体的なものやからしかたのないこと。生理的なもの。

ある日、受け持ちさせていただいた94歳の女性。チームも違うし受け持つことも少ないけど

なぜか私はその方が大好きで。訳もなくそばによって話したことも多かった。

私の名前珍しいでしょ?でも昔は嫌やったんよ〜みんな昔の女の人は○○子がおおかったし4人きょうだいの中でわたしだけ”お”がつくのよ。お母さんに怒ったこともあってね〜って

医療とは関係の無い、そんな他愛のない話をするのがめっちゃ好きで。その時の私は看護師ではなくただのねーちゃんになってるんやけど。でもそんなときに

もうね、こんなんなってしもたらあかんわ。もう生きたない。けどなかなかそんな訳にもいかんね〜

ってポロって言うことがよくあるんよね。心理的な悩みというか、高齢者の特徴でもある死に対する恐怖や不安。それを受け入れて生活していく段階。それはその人にしかわからんもの。私はそうなんですねってまず共感をした。その人のその気持ちをわかりたいと思った。

どういう気持ちでその言葉を届けるかっていうのも目には見えへんけど相手に伝わること。受け取る側の受け取り方によっても変わってはくるけど。その方の入院中の生活を見てると病気を受け入れて生きようとしてた。94歳でまだ生きる努力をしてた。元のADL保つためにちゃんと自分から歩行練習もしてご飯も全量摂取。受け入れができていた人やった。性があるまで生きようとしてた。そういう人の方が少ない気がする。病気を持った人は特に。

やから私は、きっと、何か○○さんに必要な役割があるんやと思います。そのひとつに私を元気にしてくれること。○○さんの笑顔を見ると私は元気になります。元気な姿で退院するところ見せてください!わたしのために生きてください!って言ったら

なんて嬉しいこと言ってくれるの〜って顔をさすってくれた。

でも次の日おはようございますって行っても私のことは覚えてないし昨日の出来事も覚えてない。顔を優しくさすってくれたことも。でも私は昨日のこと覚えてるしその方が喜んでくれたこともその時見せてくれた顔も言葉も忘れない

。人間って欲深いもので私のこと覚えてほしい、感謝してほしいみたいなことを求めてしまう。主体が自分やから。軸は自分やから。けど、認知症の人にそれを求めてしまうと自分がしんどくなる。なんで覚えてないの?って言われる相手もしんどくなる。

忘れてしまうことが生理現象やから仕方のないこと。頑張ってもできないことがある。やから私は何度でもそのおばぁちゃんのところにいくし同じことであってもなんども同じ事を伝える。覚えてくれてないからこそ何度でも嬉しい言葉を私は聞ける。その方にとって初めて伝える言葉でも。

だから、その瞬間瞬間を大事に全力で関わらせてもらうことに尽きる。その時はその時しかないから。それを理解できたのは5年目のとき。

そんなことをメモってた私は看護が好きなんやと気づいた看護師7年目です。

一年目の時から嫌だった。

なんでいらない人に酸素するの?

なんで心電図モニターつけるの?

必要度のためになんで患者さんを犠牲にするの?

患者さんが1番じゃないの?

言ってることとやってることが違う!

でもここにいる以上

それがここのルール

それが普通

ドクターの指示やから。

病院の経営のためやから。

自分が生活していくためやから。

でも、嫌やった。

嫌なのに患者さんに酸素しときましょうねって

もう外せると分かってても必要度がって思う自分。

それでも笑顔で振る舞う自分。すごく嫌やった。

看護必要度は2年ごとに見直しされてるから私が1年目のときと今は変わってきてる。

大きい病院やからこそ、自分の思いはなかなか通らず理解はされへんことが多い。

ましてや1年目でそんなことは言われへんかったけどおかしいなぁて思うことは多かった。

でも、その感覚は忘れたらあかんと思う。

私は病院向きではないなぁと今でも思う。

酸素もモニターも点滴もしたくない、外して欲しい。その思いを尊重したい。

拘束してまでする必要ない。って思うけど病院は治療するところ。

本人が病院嫌いでも家族は心配で連れてくる。

その矛盾が患者さん自身を苦しめてることもある現実がある。

なんかほんま難しい。

色んな背景があるからこと一概には言えないから余計ね。

やりたい看護をできる場所に行くしかないんやなぁと思う日々です。

稼ぐ嫁は嫌なん?

先日旦那さんとふたりで外食のときのこと。

👩私がもっと稼いでくるわ!

👨いや、ええわ。忙しなって家におらんくなる時間が増えたら嫌やし。

👩家におる時間が今と変わらず稼いできたらええんちゃう?

👨そやなーでもそれなかなか難しいことちゃう?

👩どうやろうな、やり方ちゃう?

👨でも今でも十分幸せやけどな。その日暮らしみたいな生活でもないし、食べるものに困ることもないしさ。

 

みたいな会話があって。

確かに今でも幸せやけど、現状で満足してしまったら成長はないと思う。お金は必要やし、あることで余裕が出たりしたいこと、欲しいものを我慢し過ぎず生活はできる。

夢で終わらしたくないなぁと思ってる。

やからこうしてブログを始めてみたり物販の仕事をしてみたり。(物販は合わず辞めました)副業できたらいいなと思ってるとこです。

まだまだ勉強せなあかんことだらけ。

旦那さんもお金のこと疎いから私が勉強して理解してもらわなあかんなぁと。

旦那より嫁が稼いできても普通な時代。私はそれでお互いの満足度が上がるなら、稼ぐべき。そのための努力をしていきたいと思う。

29歳看護師 いままでとこれから

こんにちは。初めての記事なのでご紹介から。

29歳 三重県で病棟看護師として勤めています。

26歳のときワーホリでカナダへ7ヶ月行っていたのでその間のブランクはありますが、看護師歴7年、8年程かと思います。

専門学校が大阪だったのでそのまま大阪で就職。5年病棟看護師として勤めましたが、これぐらいになると任されることが多くなり上と下に挟まれストレスが多くなったこと、海外生活経験がしたかったことから退職。自分を見つめ直すためにも息抜きするためにも7ヶ月間カナダの生活を楽しみました。

お金が底をついたので(笑)日本に帰国。実家に転がり込み、特養で派遣看護師として働き始めました。カナダに行く前は看護師絶対せん!って決めてたのに。その間特養以外に合間でデイサービスや訪問入浴などの経験もしてました。色んな経験今のうちしとこって思って。その年の冬からコロナが流行り始めてましたね〜。

8ヶ月間派遣看護師してましたが、物足りなくなってやっぱりもう少し勉強せんとなって思ったのとその時特養で知り合った今の夫と付き合ってて、同じ職場はやりにくくなったのもあり、2次救急の病院へ転職。

27歳でまた病棟看護師として働き始めました。そこで働き始めて今1年半程になります。

今思っているのはやはり私は病院で看護師するのは自分にあってないなと思う。忙しいし、定時で帰れることはほとんどないし、夜勤あるし、業務以外に委員会や研修行かなあかんし。でも夜勤で稼げるうちに稼ぐこと、コンスタントに安定した収入があることが優先順位的には高くて。

子どもができたら夜勤はしたくないし、無理な働き方は辞めたいと思っています。今訪問看護に興味があり今後はそっちの方向で看護師をしたいと思ってます。30代後半~40代にはできれば自分で起業したりフリーで仕事したいという希望を持っています。なので、今地元の訪問看護ステーションへ出向き実際にお宅へ訪問して見学させてもらったり話を聞かせてもらったりしてる段階です。まだまだやりたいことが山積み。ブログもちょこちょこ書いていけたらと思います。